「今月中に、なんとか決めたい」。 その焦りが相手に伝わった瞬間、商談の主導権は先方に移ります。 足元を見られ、譲歩を重ね、気づけば利益の薄い契約になっている——そんな経験を持つ営業パーソンやマネージャーは、少なくないのではないでしょうか。 実は「早く決着したい人ほど交渉に弱くなる」ことは、ゲーム理論の研究で裏付けられた”原理”です。 交渉とは、そもそも何を分け合う行為なのか。 なぜ焦ると負けるのか。 顧客との協力関係はどうすれば生まれるのか。 ゲーム理論を専門とする東京都立大学の渡辺隆裕教授に、営業現場で使える「交渉の原理」を伺いました。
■取材協力先プロフィール

渡辺 隆裕
東京都立大学 経済経営学部 教授
大学院 経営学研究科 経営学専攻
1964年生まれ、北海道出身。東京工業大学工学部経営工学科卒業、同大学理工学研究科経営工学専攻修士課程修了。博士(工学)。東京都立大学経済経営学部教授。専門はゲーム理論、ミクロ経済学。特にオークション、リアルオプションとゲーム理論など、ゲーム理論の工学的応用などを中心としている。著書に『ゼミナール ゲーム理論入門』『日経文庫ビジュアル「ゲーム理論」』(日本経済新聞出版社)、『図解雑学ゲーム理論』(ナツメ社)、『一歩ずつ学ぶ ゲーム理論』(裳華房)。趣味は競馬とスキー。
ゲーム理論は、営業の「物理法則」である
松下和誉(以下、「松下」)
まずゲーム理論とはどんな学問なのか教えていただけますか。
渡辺隆裕教授(以下、「渡辺」)
企業の価格競争や立地の競争、国と国の交渉——例えば、今のアメリカとイランの戦争で言えば、「停戦を守る」か「攻撃するか」を考えます。 こういったものは全部、国家や企業が「プレイヤー」であり、何を選ぶかは、将棋で次にどの駒を動かすかと同じように、数学として解けるんですね。 抽象化すれば、すべて「プレイヤーがいて、何かを選択して、結果が決まる」というシンプルなもの。 それを全部抽象化し数学にして、同じ理論として解いていこうというのがゲーム理論です。
松下
営業のマニュアルを整備しても、パフォーマンスが上がる人と上がらない人が出てきてしまいます。 そこにゲーム理論の視点を持ち込むと、営業の見え方はどう変わるのでしょうか。
渡辺
ゲーム理論は「原理」です。 場面ごとでどうするということではなくて、根本的な原理を追っています。 昔、海外のMBAを取ってきた商社の人が「ゲーム理論は原理原則だから直接使う感じではないけれど、必ず一番最初に習う」と言っていました。
私たちはよく物理学に喩えます。 物理学で最初に習うのは「空気抵抗も摩擦もない面を転がる」といった話ですよね。実際には摩擦のない面なんて存在しない。 でも、まずそこを押さえないと、その先には行けないのです。
まず交渉の原理という枠組みを押さえたうえで、現実に対応していくことが大切です。 そうでないと「こういう時はこうする」という暗記的なマニュアル対応になってしまうからです。 原理がわかっていれば、マニュアルと対比して「なぜ現実は理論と違うのか」「ここは同じなのか」と考えることで理解が深まりますし、人間が機械のようには動かない部分も逆に見えてくるでしょう。

価格交渉の正体は「差額の分け合い」——まず”決裂点”を押さえる
松下
価格交渉でゲーム理論を学ぶとしたら、最初に何を知るべきでしょうか。
渡辺
価格交渉は、お金を分ける交渉であるということ。例えば「2,500万円以上なら売ってもいい」という人と、「2,700万円以下なら買ってもいい」という人がいて、初めて交渉は成立しますよね。このとき 仮に2,510万円で売買されると、売り手は10万円のプラス、買い手は190万円のプラス。 2,600万円なら100万円ずつです。 つまり価格交渉とは、差額の200万円を目の前にドンと積んで、「これをどう分けましょうか」とやっているのと同じなんです。 そして交渉が失敗すると、お互いゼロになってしまう。
ゲーム理論では、交渉は「分けるお金」と「決裂点」——交渉が決裂したらどこに落ちるのか——でできている、と考えます。 大事なのは、この交渉がうまくいかなかったらどうなるのかを、お互いがちゃんと認識しているかどうかです。 そこに齟齬があることも多いので、「いま何を分けているのか」「決裂したらどこに落ちるのか」をしっかり押さえて交渉する、というのが出発点ですね。

営業とは、情報で相手の「確率」を変える仕事
難しいのは、その土俵に乗るまでの過程なのです。 「いまは別にいらない」というお客様の課題を深掘りして、「これをやらなかった5年後、10年後を想像してください」とお伝えしていくと、「確かに必要かもね」と変わっていきます。 ところが、こちらが課題を明確にした途端、「じゃあ他社にも聞いてみるよ」と言われてしまうんです。
渡辺
よく「ゲーム理論で解決できませんか」と聞かれるんですが、わからないことをゲーム理論でわかるようにはできないんですね。 ただ、いまのお話で思うのは、やはり「情報」の存在を意識することが大切と言うことですね。
「いらない」と言っていた人が「必要かもしれない」に変わるとき、2つの解釈があります。 1つは、本人の好みが変わったという考え方。 教育などではよく「人が変わる」と言いますが、経済学やゲーム理論はその立場を取りません。 本人は何も変わっていない。変わったのは、本人が取得した「情報」だと考えるのが、もう1つの立場です。
サイコロを振って伏せてあるとき、「1が出ている確率は?」と聞かれれば6分の1と答えますよね。 でも「偶数が出ていますよ」と言われた瞬間、確率は3分の1に変わる。 それと同じで、情報が提供されることで「必要である確率」が高く変わった、と捉えるのです。 つまり営業とは、相手に情報を与えることで、相手も自分もプラスにしていく仕事だと言えます。
この情報の与え方は、ゲーム理論では「インフォメーショントランスミッション(情報伝達)」という大きな研究課題になっています。 大きな流れとしては、相手と自分の利害が一致しているときは正しく伝えるし、完全に対立しているときは嘘をつく。 ポーカーで大した手でもないのに「いい手を引いてるよ」とブラフをかけるのは、利害が完全に対立しているからです。
松下
私は営業活動において、利害が一致していないパターンは、実のところほとんどないと思っています。 お客様は、商品に対する優先順位に気づいていないだけではないかと。 例えば、健康食品を「いらない」と言う方にも、成分から入るアプローチもあれば、価格や、信頼している人の推奨から入るアプローチもある。 その人が何に重きを置いているのかを探っていくんです。 営業とは、「利害が一致しない」をなくすために、必ず一致できるポイントを探す活動なのだと思いますね。
渡辺
なるほど。 人間には多元的な興味があって、「この面では5点、あの面では3点」と多属性で点数付けをしているはず。 いまおっしゃったのは、その多属性のどこに情報を与えれば利害が一致するのかを探っているということに近いと思いますね。 相手の興味をどう探り出すかは、いままさにAIの方面で盛んに研究されているところだと思います。

「早く決めたい人」は交渉に負ける——最後通牒ゲームの教訓
渡辺
交渉の原理として有名なのが「最後通牒ゲーム」です。 100万円を2人で分けるとき、まず先手が「私がいくら、あなたがいくら」と提案する。 提案された側はイエスかノーしか言えず、ノーなら2人ともゼロ、というルールです。
ゲーム理論の答えは「先手が自分は99万円で相手が1万円と提案し、後手はイエスと言う」です。 1万円でも、ゼロよりましだからです。 ですが、30年ほど前からこのゲームは世界中の多くで実験されていますが、そこでは99万円と1万円を提案する人はほとんどいませんし、提案してもほぼノーと言われます。 1万円をもらうことよりも、「公平に提案してほしい」という気持ちのほうが強いのです。 「6割を自分、4割を相手」という提案なら、だいたい受け入れられやすい、という結果が出ています。
ここからわかるポイントがいくつかあります。 まず、期限が決められた交渉では、最後に通告できる側が絶対的に強い。 一方で、何度もやり取りできる交渉では提案力の差が弱まって、だんだん半々の公平な分配に近づいていきます。
ただし重要なのは、お金をすぐ欲しい人、早く交渉を決着したい人は、交渉力が弱くなるということです。 早く決着するためには、自分が譲らなければいけません。 逆に、いくらでも長引いて良い側は、交渉力が強くなる。 辛抱強く交渉できる人のほうが、より多くを得られるのです。
松下
とてもわかります。 営業はおおよそ毎月の目標を決められているので、「こっちは今月取りたい」というのが出てしまうんですよね。 すると先方は「数値目標があるんだな」と思う。 足元を見られて、「このぐらいじゃないと」と押されてしまう。 まさにゲーム理論の通りのことが、現場で起きています。
渡辺
もうひとつ、同じ設定で相手がノーと言えない「独裁者ゲーム」という実験があります。 提案した通りに決まるので、理屈では全部自分が取るはずですが、実験すると人間はやっぱり優しいもので、2割ぐらいは相手にあげる。 そこからわかるのは、人が相手に譲る気持ちは、利他心と、「ノーと言われることを恐れる」利己心の両方からできているということです。
松下
私たちはたまに「値段はお客様が決めてください」と言うケースがあります。 相手のことを考えて、ウィンウィンな中長期的関係を望んでいる方は、私たちの定価より高く評価してくださることが結構ありますね。
渡辺
まさに「長期的関係」がもうひとつのキーポイントです。 最後通牒ゲームの実験は、相手が誰かわからない覆面で、その後に相手との関係がない状態で行います。 後に続く関係があると、結果は大きく変わってくるのです。 自分だけ利己的に取ろうとすると関係が断ち切られたり、仕返しされたりすると思えば、相手に多く譲っておこうとなるわけです。

協力は「一回きり」では生まれない——囚人のジレンマ
渡辺
長期的関係で言うと、「囚人のジレンマ」の研究があります。 お互い協力するかしないかを選ぶゲームで、相手が協力してきたら自分は協力しない方がタダ乗りで得をするし、相手が協力しないなら自分が協力するとバカを見る。 でも、お互い協力しない状態よりは、協力し合った方がいい——という構造です。
一回きりの関係だと、お互いの協力はうまく引き出せません。 でも長期的な関係なら、協力できる可能性が生まれます。 この場合、基本は「アメとムチ」の戦略が有効です。 相手が協力してこなかったら、次の回からこちらも協力せずにマイナスを与える。 それを続けることで、「協力しないのは損だ」と相手に認識させ、協力を引き出すのです。
ただし、ここでも個人差があります。 今すぐ利益が欲しくて長期的に物事を考えないプレイヤーとは、協力がなかなか達成できない。 ある程度、長い時間軸で協力の利益を考慮できる人間でないと、協力は達成できないという結果があります。
松下
組織の中のタダ乗り——頑張らない人の問題も、これに近いものを感じます。
渡辺
理論的には、タダで協力してあげ続けないことが大事なのですが、「組織がギスギスする」「罰則なんて与えられない」という話はよく聞きます。 実は、私もどちらかというと性善説を信じている方で、ゼミの運営でも結局罰則を与えられないようにしています。 そうすると学生に対して、「次はしっかりしてよ」「はーい」という感じのまま卒業、なんてことがよくあります。 別の学生からは「囚人のジレンマの話と違うじゃないか」と言われるんですが。 人に冷たくすること自体で自分も傷を負ってしまうから、それに比べればタダ乗りされた方がまだましだと、みんな思ってしまう。 そこが悩ましいところです。

成果給が効く仕事、効かない仕事——インセンティブは「不確実性」で設計する
松下
罰則ではなく、インセンティブの設計についてはどうでしょうか。
渡辺
「モラルハザード」と呼ばれる研究領域があります。 ゲーム理論で言われていることはシンプルで、努力と結果が直結する仕事には、結果に対してインセンティブを与えていい。 でも、努力と結果の間に不確実性が高い仕事に、結果だけで報酬を与えるのはよくないのです。 一生懸命努力したのに結果が出ないことも、その逆もあるわけなので。
マネージャーとして重要なのは、努力と結果の結びつきが強いのか、偶然性が強いのかを意識しながらインセンティブを設計することです。 不確実性が高い仕事に関しては、固定給をしっかり保証してあげて、インセンティブはわずかな部分にすることが重要だ、という結果があります。 これは国民性の話ではなく、数学的な理論としてそうなるのです。
もうひとつが「リスク回避性」。 リスクを好まない人には安定した報酬を、リスクを好む人には結果が出れば大きく、出なければ小さい形にした方がうまく働く、というものです。 ただ、その人が「リスクを回避する方か、そうでないか」の見極め方は理論にはなくて、「豚のレバーが好きか嫌いか」と同じ、その人の好みだと考えます。行動の観察で見るしかないですね。
松下
私たちは感覚的に、「チャレンジングな目標設定をしよう」という聞き方で見極めています。 社員に来期いくらやってみたいかと聞くんですね。 すると1.1倍の人もいれば、大きな数字を掲げる人もいる。 その反応で相手のリスク回避性がわかるんです。
渡辺
なるほど、近い気がしますね。 安定志向の人には安定的な報酬を与え、チャレンジングな人は成功したら大きく、成功しなければ我慢してもらう。 社会選択論に「エンビフリー(envy-free/羨望のない結果)」という考え方があって、相手の取り分と自分の取り分を交換したいと思わない状態であれば、その分配は公平だと言える。 安定型の人は「あの人は成功して多くもらっているけど、ゼロになる可能性もあるから自分はこちらでいい」と納得し、チャレンジ型の人は「ゼロになったけど、挑戦できたからいい」と思える。 そういう相互理解のある報酬体系は、お互いにうまくいく可能性が高いと言えるでしょう。
悪い均衡は、トップが率先して壊す
松下
最後に、営業組織のマネージャーが「これだけは押さえておくべき」という原理があれば教えてください。
渡辺
今日お話しした以外に加えるなら、「コーディネーションゲーム」ですね。 みんなで同じことをやっているのがいい状態のとき、全員が悪い状態にいるのに、「相手がこうするなら自分もこうしておいた方がいい」と、そこに留まってしまうことがあります。 ゲーム理論で有名な安田洋祐さんは、これを「ブラック均衡」と名付けています。
よく挙げられるのが「付き合い残業」です。 上司が帰らないと自分も帰れない。 ですが、自分ひとりだけ変えようとすると、その人が損をしてしまう。 こういうとき「モラルが低い」「民度が低い」という問題で片付けられがちですが、そうではありません。 むしろこの際、トップが率先して、みんなが良い方向に行くように誘導してあげなければいけないのです。

変わらない「原理」を知れば、動かせる「変数」が見えてくる
渡辺隆裕教授が一貫して語ったのは、ゲーム理論は現場のマニュアルではなく、その手前にある「変わらない原理」だということでした。
ポイントは3つです。
第一に、交渉は「分け合うもの」と「決裂点」でできていること。 いま何を分けていて、決裂したらお互いどこに落ちるのか。 その認識合わせこそが交渉の出発点です。
第二に、早く決めたい側は交渉に弱くなり、協力と公平は長期的な関係からしか生まれないこと。 月次目標の焦りを相手に見せることは、自ら交渉力を手放す行為です。
第三に、インセンティブは「努力と結果の結びつき」と「リスク選好」で設計すること。 不確実性の高い仕事に成果給だけを張るのは、理論的に誤りです。
渡辺教授は、社会人が聴講するようなご自身の講義について「直接は、役には立ちそうにないが、非常にプラスになった」という受講者の評価を紹介してくださいました。 原理はそれ自体が答えをくれるわけではありません。 しかし原理を知っていれば、目の前の商談や組織の「どこが変数なのか」が見えるようになります。
まずは今日、あなたの進行中の商談をひとつ選んで、「何を分けていて、決裂したらどうなるのか」を書き出してみてはいかがでしょう。
CLF PARTNERSは、現場で積み上げてきた知見と学術的なエビデンスを融合させながら、お客様の営業組織の変革をご支援していきます。
<参考書籍> 『サクッとわかる ビジネス教養 すぐにわかるゲーム理論』 渡辺 隆裕 監修
