正しいKPIを設計した。 正しい戦略を、上層部やマネージャーとも議論して決めた。 それなのに、現場になかなか浸透しない。 落とし込んだはずの施策が、いつのまにか形骸化している。
そんな経験を持つ営業組織のリーダーは、少なくないのではないでしょうか。
「正しいことを伝えれば、人は動く」というのは、実は思い込みかもしれません。 人間は、思っているほど合理的な生き物ではないからです。
なぜ正論だけでは営業組織も顧客も動かないのか。 現場で使える「仕掛け」のつくり方について、マーケティングと行動経済学を専門とする阿部誠教授に話を伺いました。

阿部 誠
中央大学 大学院戦略経営科 教授
東京大学 名誉教授
1991年MIT博士号(Ph.D.)取得後、同年からイリノイ大学助教授に就任。1998年東京大学助教授を経て、2004年から現職。フンボルト大学(ドイツ)、UCLA、イェール大学、ニューサウスウェールズ大学(シドニー)、シンガポール国立大学にて客員教授、准教授、研究員を歴任。
専門は、マーケティング・サイエンス、消費者行動、行動経済学。ノーベル経済学賞受賞者との共著を含め、マーケティング学術雑誌に論文を多数掲載。2003年にJournal of Marketing Educationからアジア太平洋大学のマーケティング研究者 第1位に選ばれる。日本マーケティング・サイエンス学会の代表理事、学会誌前編集長。
おもな著書に『(新版)マーケティング・サイエンス入門:市場対応の科学的マネジメント』(有斐閣)、『マーケティングの科学―POSデータの解析』(朝倉書店)、『大学4年間のマーケティングが10時間でざっと学べる』(KADOKAWA)、『東大教授が教えるヤバいマーケティング』(KADOKAWA)、『大学4年間の行動経済学が10時間でざっと学べる』(KADOKAWA)などが、監修に『サクッとわかる ビジネス教養 行動経済学』(新星出版社)などがある。
目次
「正しさ」だけでは、人も組織も動かない
松下和誉(以下、「松下」)
僕らはセールスとカスタマーサクセスの領域で、企業さんの中にかなり入り込んで支援させていただいています。 ただ、戦略や方法論が正しいと分かっていても現場ではなかなか実践されない、形骸化してしまうということが多々あります。 現場の方々って、正しいとは分かっているはずなのに、なぜそのとおり動けないんでしょうか。 どんな心理的なバイアスが働いているんでしょうか。
阿部誠教授(以下、「阿部」)
行動経済学や心理学でいうバイアス、つまり非合理的な要素というのは、ものすごくたくさんあるんですよね。
行動経済学で我々が学べることは、「人間はそこそこ合理的、そこそこ自制的、そこそこ利己的にしか振る舞わない」ということです。
経済学には「ホモ・エコノミカス(経済人)」という仮定があります。 超合理的、超自制的、超利己的に振る舞う、いわばAIやロボットのような人間像です。 すべての選択肢を知っていて、そこから瞬時に最も高い効用や利益をもたらすものを選ぶ。伝統的な経済学は、この仮定から経済現象を説明したり予測したりしてきました。
ですが、実際の人間はそこまで合理的でも知性的でもありません。 たとえばシャンプーを買うとき、日本には何百もブランドがあるのに、実際に知っているのはせいぜい十個ぐらいです。 その中から、なんとなく良さそうなものを選ぶ。 これが「ほどほど合理的」な人間の実態です。
自制知性的でないというのは、近い将来と遠い将来を天秤にかけたとき、人間は近い将来を過大評価してしまう傾向があるということです。 禁煙やダイエットのように、遠い先の健康には重要だと分かっていても、つい目先のタバコやデザートに手が伸びてしまう。
そして超利己的でもありません。 実際の人間には「社会的選好」があり、他人のことも考えます。 ボランティアや寄付をすることもある。 もしかしたら、その社会的選好が働いて、正しいKPIがあっても「他の社員が損をしてしまう」という思いやりの気持ちが、実行を妨げていることもあるかもしれません。
経済学でいう「人間の合理的な行動」のわかりやすい例が、価格と需要の関係です。 価格が上がれば需要が下がる。 価格が上がるというのは経済的な痛みですから、これは非常に理にかなった行動に見えます。

でも、実際の世の中はそうならないケースも多いんです。 たとえばBOSEという、アメリカの高級オーディオメーカーがあります。 日本での売上を上げようとして、高級なステレオの値段を下げたんです。 そうしたら、逆に売上が下がってしまいました。
これはなぜかというと、価格には経済的な痛み以外に、品質のバロメーターとしての意味や、プレステージ(希少性による価値)としての意味があるからです。 みんなが欲しいと思っているのに買えないからこそ、価値がある。 そういう心理的な要素も考慮に入れて経済現象を見ないといけない、というのが行動経済学の立場なんです。
このように行動経済学では、心理学のアプローチを用いながら従来の経済学を見つめ直す学問です。 行動経済学から分かることは、人間は正しいと分かっていても、その合理的、自制的な判断を採用するとは限らない、ということなんです。
松下
いろんな要素が絡んでいるんですね。 一概にこれが原因、というものではなさそうです。
阿部
そうですね。 だから本人に直接聞いても、なかなか答えられない場合が多いんです。 潜在的にしか意識していないものも多いので、なぜ正論どおりに動かないのかを知るには、深層面談のような形で聞くことが重要になります。
ナッジ――強制せずに、人を自発的に動かす仕組み

松下
評価の場面でも、金額的な評価だけでなく、やりがいや重要感を高めるアプローチを意識している企業は多くあります。 ですが、どういう軸で対話していけばいいのか、なかなか見つけられずにいます。 「なんでやらないの?」と聞いても、きっと「やってます」としか返ってこないと思うんです。 どんなヒアリングの仕方、アプローチがいいんでしょうか。
阿部
「ナッジ」という手法が役立つかもしれません。 ナッジとは、英語で「肘でつつく」という意味です。 本人にとって一番いいことは分かっているんだけど、つい合理的でない行動でそれから逸れてしまう。 そこを、ちょっと肘でつついて、正しい方向に導く仕組みのことをナッジと呼びます。
たとえば禁煙なら、タバコを吸いそうになったら禁煙のリスクを書いた紙をそばに置いておく。 あるいは吸ってしまったら誰かに食事をごちそうする、という約束(コミットメント)をしておく。 そういう仕組みづくり全体をナッジと言います。
松下
罰するようなペナルティの仕組みでもいいんですか。
阿部
いいですね。 それは「コミットメント」と呼ばれる手法です。 ポイントは、他人がペナルティを課すのではなく、本人自身がそういう仕組みを作るということです。
松下
なるほど、自制に対するアプローチということですね。

阿部
そうです。 先ほどお話しした「超合理的」「超自制的」「超利己的」の3つの要素は、それぞれ独立していて、会社にとっての合理性が、個人にとっては合理性を持たないということもあります。 会社の最終的な目標と、個人の目標は違いますから。
松下
このナッジには、いくつか特徴があるとお聞きしましたが。
阿部
はい、4つあります。 1つ目は、本人に強制・強要しないこと。 義務やペナルティ、罰金を課すのではなく、本人の意思で自由に行動できる仕組みであることです。
2つ目は、本人のためになること。 会社の目的があっても、それが本人のためにならなければ、人は動きません。 本人の目的や効用と、会社の目的や効用をなるべく一致させる仕組みが必要です。
3つ目は、経済的インセンティブが最小限であること。 給料を倍にすると言えば、人は動きます。 でもナッジは、報酬を最小限にしても動きたくなるような仕組みを目指します。
4つ目は、仕組みが簡単で安価であることです。
わかりやすい例は、男性トイレの小便器に描かれたハエですね。 あれがあることで、強制しなくてもトイレがきれいに使われるようになる。 お金を払うわけでもなく、本人にもトイレの所有者にもメリットがある。 これが典型的なナッジです。
コロナワクチンの接種を促す取り組みも、ナッジの好例でした。 ワクチン接種証明がないと外食できない、というのはかなり強い形のナッジですが、それ以外にも、都道府県ごとの接種率を毎週発表することで、自然と競争意識が生まれる、というのもナッジの一つです。
裁量権と多面的な評価が、営業パーソンを自ら動かす

松下
では、企業の中の営業パーソンに感じてもらえるナッジとは、どういうものになるんでしょうか。
阿部
「強制強要ではなく、本人が自由に行動する」というのがナッジの要件のひとつでしたね。 だとすれば、営業の人たちにある程度の裁量権を与える、自分で判断させるということが、実は自発的に工夫しようという気持ちにつながるのではないかと思います。
あとは、経済的インセンティブだけでなく、非経済的インセンティブも意外と効果的です。 たとえば優秀な成績を残した営業パーソンを社内で表彰する。 オリエンタルランドでは、良い仕事をしたキャストを毎月みんなの前で表彰し、年に一度は特に優れた人がパーティーに招かれる、という仕組みがあるそうです。
松下
僕らが支援させていただいている組織には、10名ほどの小規模な営業チームがある会社が多いんです。 そうすると、いつも同じ上位の人だけが評価されてしまい、「またあの人が表彰された」で終わってしまいがちです。 組織には2:6:2のような構成があって、上位2割ばかりが評価される状態が続くと、真ん中や下位の人たちが「自分たちも頑張ろう」と思いにくくなってしまいます。 そこを促すナッジがあれば、と思うのですが、何かヒントはありますか。
阿部
ひとつは、KPIを多面的な指標で捉えることです。 どうしても今は、会社に貢献する利益や売上、クライアント数がメインのKPIになりがちですが、それ以外に「団結感を生み出したかどうか」、「思いやり」や「社会的貢献の指標」なども、弱い重みでいいので加えてみる。 複数のKPIを使うということですね。
もうひとつは、上司だけでなく、いろいろな立場から評価してもらうことです。 顧客からの評価、サプライヤーからの評価、あるいは同僚からの評価も入れる。 競争相手であるはずの同僚同士でも、「あの人は自分が困っているときに助けてくれた」という側面を評価に組み込む。 直接的な数字にはつながっていなくても、組織として将来伸びる可能性がある人を見つけられるかもしれません。
松下
なるほど。 数字だけでは見えない、その人のいいところが見えてくる評価軸を作れると、伸びる可能性が広がりそうですね。
お金は、最強のインセンティブではない

松下
営業は数字で成果がわかりやすいからこそ、評価の高い人にどんどんインセンティブを与えて、出せない人は入れ替わっていけばいい、という発想に流れがちです。 でも、日本の企業はそういう考え方ばかりでもないので、成果を出せない人たちが組織に滞留してしまう、という悩みもよくお聞きします。
阿部
お金というのは、実は最強のインセンティブではないんです。 研究でもそれが分かっています。
イスラエルの幼稚園での実験があります。 お迎えの遅刻が問題になっていたので、遅刻した保護者に罰金を科すルールを設けたんです。 そうしたら、逆に遅刻が増えてしまいました。 なぜかというと、遅刻がモラルの問題ではなく、お金で解決できる「取引」に変わってしまったからです。 「お金を払えば、堂々と遅刻していい」というふうに、価値観そのものが変わってしまったんですね。
心理学者による、もうひとつ面白い実験があります。 複数回の休憩をはさみながら、パズルを解いてもらう実験です。 被験者を2つのグループに分けて、統制群には金銭的な報酬を与えず、処置群には解いたパズルの数に応じて報酬を払いました。 すると休憩中、報酬をもらったグループは休憩になるとパズルを一切解かなくなったのに対し、報酬がないグループは休憩中も自発的にパズルを解こうとしたんです。
お金をもらうことで、パズルを解く行為そのものが「お金のための作業」に直結してしまい、自発的にやろうという気持ちが失われてしまう。 これが内発的動機づけの重要性を示す実験です。

内発的動機づけを促すには、従業員や営業パーソンが「自分は有能だ」「自分で決められる」という感覚を持てることが必要です。 裁量権があり、自分である程度考えて自由に動けるカルチャーや風土があること。 そうでなければ、給料だけで動こうとする人は、必要な分だけもらえれば、その先は自発的に働かなくなってしまいます。
松下
理解しているつもりでも、実際にできているかというと、なかなかできていないんですよね。 短期的には金銭的なインセンティブのほうが動くので、そちらに頼ってしまって、長続きしない。 内発的動機づけを促すアプローチには、どんなやり方があるのか、非常に参考になります。
阿部
最近は転職も多いですから、頑張ったからと給料を上げても、もっと高い給料を提示する会社があれば、そちらに移ってしまいます。 「あの人と働きたい」「会社の理念に共感できる」。 そうした内発的な動機こそが、転職を止め、エンゲージメントを高める力になるんだと思います。
まとめ:行動経済学で営業組織を動かす「3つのポイント」
阿部教授は、正しい戦略やKPIだけでは人が動かない理由を、行動経済学の知見から丁寧に解きほぐしてくださいました。
見えてきたポイントは、大きく3つです。
第一に、人間は「そこそこ合理的、そこそこ自制的、そこそこ利己的」にしか振る舞えないということ。 正論が届かないのは能力の問題ではなく、人間という生き物の性質です。
第二に、強制せず、本人のためになり、経済的インセンティブを最小限に抑えたナッジであれば、裁量権や多面的な評価、非経済的な表彰といった仕組みを通じて、人は自発的に動き出すということ。
第三に、お金は最強のインセンティブではなく、自己決定の感覚を伴う内発的動機づけこそが、長く人を動かし続けるということです。
正しいことを伝えるだけでは、人も組織も動きません。 だからこそ、人間の非合理性を前提にした「仕掛け」の設計が必要になる。 CLF PARTNERSとしても、こうした学術的な知見を現場で使える形に落とし込みながら、お客様の営業組織の変革を支援していきたいと考えています。
